「見守ることしかできなかった、あの瞬間に」
今日は躁の波が強くて、一日中ゲームをしていた。
けれど、その中にあった家族の物語が、不思議と私の心を静かに癒してくれた。
躁の波が高い日は、心の奥がざわざわと揺れる。
そんな日は、ひとつの世界に逃げ込むようにしてゲームをする。
今日は「Children of Morta」という物語の中で、家族が愛と喪失の間で生きる姿に、静かに心を奪われた。
気づけば、あの時の記憶が胸の奥からそっと浮かび上がっていた。
──見ていることしかできなかった、あの瞬間を。
おばあちゃんが、家族を守るために立ち上がる場面があった。
強い魔力を持ちながらも、その力を誇ることはなく、ただ静かに、愛する者たちを包むように戦っていた。
その姿を見たとき、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
守るとは、前に出ることだけじゃない。
見守り、信じ、そして時に身を差し出すこと。
おばあちゃんの姿に、かつて私が見届けた“命の最期”が重なっていった。
涙が止まらなかった。
それは、ただ悲しかったからではない。
どうしても抗えない運命の中で、それでも誰かを想い続ける強さに触れたからだと思う。
見ていることしかできなかった、あの時の自分。
何もできなかった無力さと、それでも最後まで一緒にいられたという確かな温もり。
その両方が、静かに心の奥で溶け合っていった。
あの経験があったからこそ、私は今、「自分の命を守ること」や「大切な人を想うこと」を少しだけ深く考えるようになったのかもしれない。
「Children of Morta」の家族たちは、それぞれの痛みや恐れを抱えながらも、互いを信じ、支え合いながら生きていた。
おばあちゃんが示した「見守る勇気」は、きっと誰かを想う気持ちのいちばん深いところにあるものだと思う。
あの日、私は“何もできなかった自分”を責めていたけれど、今は少しだけ、その時間を大切に思えるようになった。
誰かのそばにいること、生き続けてその想いを抱えていくこと。
それもまた、ひとつの“守る”形なのだと、この物語が静かに教えてくれた気がする。
あの日の涙を思い出すたびに、「見守ること」も「生き続けること」も、どちらも優しさのかたちなんだと感じます。
もし今、誰かを想いながらも、何もできないと感じている人がいたら、どうか自分を責めないでほしい。
ただ“そばにいる”ということだけで、きっと誰かの心は守られていると私は思うから。