A型作業所で働く鬱病ブロガーの毎日

誕生日を迎えて自分が味わった精神的苦痛の人生の意味を振り返った先で見えてきたものとは。

始めに。

どうも、Soranekoです。

2月9日は私の誕生日でした。

私という人間が生まれ落ちた日。

本来は自分の誕生日というものは、親に感謝する日という日だと思ってはいますが、自分の人生を振り返ってみて、果たして感謝に足るものだったのか。

今回は、そんなことを考えていこうかなと思います。

両親と私。

まず、私の両親について。

父と母は現在離婚しており、私は中学生の時から母と一緒に暮らしていました。

離婚の原因は父親の不倫。

しかも、結婚する以前から関係があったとかいう話。

その辺のお話は、詳しくは知らないのでここでは書けませんが、まぁとにかく私が生まれる以前から関係最悪だったみたいです。

では何故母はそんな父と結婚したのか。

その部分については、恐らく推測にはなりますが、兄が出来たから。

つまり、子どもが出来たから、ということかなと思っています。

子供が出来たから結婚する、というのは当時ではどんな扱いだったんでしょう。

喜ばしい事だとは思いますが、父と母の関係を考えると、繋がりを持つために父と仕方がなく関係を持っていたのではないか、という暗い影の部分も見え隠れします。

そして、夫婦に二人目の子供が出来ました。

それが、私です。

なぜ自分を作ったのか。。。

その疑問は、両親の離婚によって表面化して、自分の心に深く残る鎖としてずっと存在しています。

いくら考えても、自分を作った理由が思い浮かばないし、自分はもしかしたら望まれて生まれた子供ではなかったのかもしれないと。

そういったことを常に考えてしまいます。

私が歩んできた人生の道。

さて、ここからは自分が辿ってきた人生を簡単に振り返っていきたいと思います。

まずは幼少期。

保育園で育ち、周りの子供たちとの関係も悪かったわけではなく、それなりに愛情をもって育っていたとは思います。

泣き虫で、幼い頃から、とにかく泣き虫だったのを覚えています。

小学生の頃、自分が周りの子供たちと仲良く遊んでいた記憶の中に、ぽっかり空いた小さな穴。

クラスで目立っている存在ではなく、地味でカーストの下位に佇んでいたと思います。

中学生の頃、部活動に明け暮れ、自分の体力と知力の低さに愕然としました。

そして、この頃の自分を深く傷つけた出来事。

それが教師からのいじめであり、人間関係。

理由もなく、担任から怒鳴られ、クラスで謝罪を強要させられるという精神的苦痛。

男性教師も女性教師も、皆大っ嫌いだったのを覚えています。

そんな私にも、かけがえのない友情があり、部活動の仲間たちが心の支えでした。

俗にいう不良という子達から守ってくれたり、不良といわれていた子と妙な友情が芽生えたり、複雑ながらも大切な出会いもありました。

高校生の頃、本格的に人間不信になり、人間関係を完全に拒絶。

学力が低かったので、勿論受験には失敗。

人生で初めて味わう大きな挫折に、心はバラバラになり、命を絶つことも考えました。

それでも母のおかげで何とか高校に通うことができ、人生というものを本格的に見つめ始めます。

自分は何故生きているのか。

何故ゆえに傷つき、苦しそうにしているのか。

そして、自分は何になりたいのか。

進むべき進路に向かって歩き出そう、という気持ちを持たせてくれた高校時代の先生方には本当に感謝しています。

そして、高校時代に勉強していたことをより深く学ぶため、専門学校に。

人間関係は相変わらず絶望的な状態でしたが、勉強したいという熱意が私を支えてくれました。

ところが、自分が追い求める勉強の先に、光などありませんでした。

待ち受けていたのは、暗黒に満ちた絶望という名の虚無。

本気で何かに打ち込んで挫折するというのは、人生の中で幾度か遭遇することだとは思いますが、まぁ自分のメンタルは粉々に打ち砕かれます。

学生時代に打ち込んだことは何ですか?という問いがいかに馬鹿馬鹿しいかが分かった気がします。

打ち込んでも結果に結びつかなければ、それは意味をなさないただの自己満足なんだと。

専門学校を4年で卒業し、社会人になるわけですが、いやぁ酷かった。

専門学校は基本2年で卒業でしたが、私が在籍していたところは4年間通うことが出来る場所だったため、問題はありませんでした。

専門学校を卒業という肩書と、大学卒業という肩書を両方持っている、珍しい人間の一人です。

この辺のお話は、また別の機会にしたいと思いますので、今回は割愛させていただきます。

そんなわけで、社会人になったわけですが、すんなりと新卒で社会に出たわけではなく、就職することが出来なかった感じです。

当時アルバイトをしていた飲食店で働きながら、フリーター的な状態でした。

就職活動は行っていましたが、コミュ障という大きな壁が自分に立ちふさがり、何社受けても不採用。

心が完全に折られたのは、自分が当時交際していた人に別れを告げられた時。

まぁ、当時の恋人とすれば、自分と一緒にいても幸せにはなれない、ということだったんでしょう。

喧嘩別れみたいな感じになりましたが、打算的な破局ということを未だに根に持っています。

そして、地元を離れる形で派遣社員として地方に赴きます。

自分の人生などこの先好転しようがないから、もうどうなっても良いや、という半ばやけくそ状態で仕事をしていました。

この時のことは、また別に記事を作って、詳しく語りたいと思いますので、ここでは割愛させていただきます。

働いていた派遣会社は、まぁ酷い会社でしたけど、今となってはどうでも良いお話です。

社会という掃き溜めにようこそ、出口はございません。

数回転職を繰り返し、正社員として働いていた会社の上司によるパワハラによってついに完全に精神を破壊され、鬱病を発症。

そして、地元に帰ることを余儀なくされ、今現在は実家で生活しながらA型作業所で就労するという生活を送っています。

ここまでが、私の現在進行形の人生曲線というものです。

酷い人生だなと、自分でも思います。

しかしながら、自分でそこを変えられなかったことに、今は悲しみしかありません。

感謝に足るのかその答え。

では、自分が生きてきたこの人生は、果たして両親への感謝に足るものなのか。

話の根本に進んでいきたいと思います。

人生の幸福値というものは、人それぞれ異なると思いますが、私の場合は普通に働いて、普通に家庭を築き、普通に暮らす、これが幸せの平均だと思っています。

これまでの人生は、この平均を大きく下回る数値を連続で叩き出し、もはや平均値としては回復できないラインに踏み込もうとしています。

であるなら、両親に感謝をする、ということは決してありません。

なぜ自分を作り出し、作り出した片方は颯爽と親としてあるべき責任を放棄したのか。

勿論、自分のことを育ててくれた母に対しては、感謝しかありません。

彼女は逃げることなく、自分のことを見守ってくれていました。

両親という言葉が、自分にとっての黒い部分をえぐる言葉であり、自分に対する中傷です。

なので、両親に感謝など一切しないし、人生の最期になぜ自分を作ったのか、答えを聞かせてほしいとさえ思います。

では、これからの自分はどうしていくべきなのか。

劣等感を抱えたまま、自分の人生を色のない絵の具で塗り潰していくのか。

そうではなく、希望を心にともして、全てを受け入れ、幸せの形を探していくべきなのか。

自分も人間なので、幸せになりたいと思っています。

その幸せを掴み取るためには、今の自分を認めて、まっすぐ歩いていくことが大事なのかもしれません。

私の場合は、本業と副業を続けながら、良き出会いを探していきたいと思います。

まっすぐに頑張ることが、自分の理想に近づく方法だと思っているから。

そして、生まれてきて正解だったのか、この答えを探していこうと思います。

最後に。

最後に、自分が生きていることに疑問を持っている人や、生まれてきたことを後悔している人に。

自分が生まれてきたことに、意味を持たせる必要はもしかしたらないのかもしれない。

疑問を持ったり、後悔したり、死にたくなって最悪な人生だと投げ出したくなる時はあるかもしれない。

だけど、それは自分の命が必死に声を上げている証拠だよ。

その声の一つ一つに魂が入っていて、その声を守ってあげることが出来るのは他でもない自分だけ。

だから、生きている意味というのは、見つからなくてもそれでも良い。

誰しも生きている瞬間が、一番輝いているはずだから。

死んだ後にゆっくり考えることにして、今はただ人生を謳歌しよう。

どんな結末が待っていても、後悔なんて最後には消えてしまうものだから。

ということで、今回はここで終わりにしたいと思います。

最後までお時間をいただき、ありがとうございました。

では、また次回の更新でお会いしましょう。

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