思い出したくない出来事ばかりだけれど、私が本当に何を経験して、どう感じていたのか――それを静かに残しておこうと思いました。
この文章は、誰かを責めるためではなく、あの頃の自分をもう一度見つめ直すための記録です。
目次
「静かに傷ついていったあの頃の話」
あの頃の私は、新しい仕事に必死でついていこうとしていました。
右も左もわからないまま、覚えることに追われ、ミスをしては落ち込み…。
それでも、努力を重ねればきっと認めてもらえるはずだと信じていました。
けれど現実は、努力よりも早く「怒号」が飛んでくる職場でした。
ほんの小さなミスでも大声で叱責され、心のどこかが少しずつ削られていくような日々が始まりました。
「上司がいない日だけ、みんな笑っていた」
私が働いていたのは、親族経営の小さな会社でした。
社員の多くが親戚同士でつながっていて、外から入った私にとっては閉じた雰囲気に感じられました。
実質的な権限を握っていたのは社長の息子で、彼の言葉ひとつで職場の空気が変わるような場所でした。
朝の挨拶をしても無視されることが多く、彼が近くにいるだけで場の空気がぴんと張りつめました。
誰も逆らうことができず、周囲の人たちは常に気を遣っていました。
その上司がいない日だけは、みんなが少しほっとしたように笑い合い、仕事のペースも穏やかになっていました。
その対比があまりにも鮮明で、私はそこで初めて、「怖いのは自分だけじゃないんだ」と気づいたのを覚えています。
「威圧の声に、体が固まっていった」
上司は、少しのミスを見つけると大きな声で怒鳴りました。
「おい!」「消えろ!」「お前の親は何を教えてきたんだ!」
そんな言葉を浴びるたび、体が勝手にこわばって動かなくなりました。
何か言い返したら、今にも殴りかかってきそうな勢いでした。
実際に手を上げられたこともあり、その恐怖が頭から離れませんでした。
声を聞くだけで心臓が早鐘のように鳴り、息が浅くなっていく。
怒鳴り声が止むたびに、「生き延びた」と小さく安堵する自分がいました。
「壊れていく体と、遠ざかる心。命の危険さえ、笑い話のように扱われた」
足を骨折した夜
残業中、急ぎの作業をしていた時に足首を思い切りひねってしまいました。
激しい痛みが走りましたが、「早く終わらせなきゃ」と思って仕事を続けました。
足を引きずっている私に、上司は怒鳴りました。
「早くしろ!」「ふざけてんのか!」
痛みでまともに立っていられなかったのに、事情を説明しても「そんなことで迷惑かけるな」「それはお前が悪い」と言われました。
その日は病院に行けず、翌朝、歩けなくなって病院へ行くと「骨折しています」と言われました。
1か月ほど休んだあと職場に戻ると、待っていたのは「骨折ごときで労災とか、会社潰すつもりか」という言葉でした。
心配の言葉は一つもなく、迷惑をかけた自分を責める気持ちだけが残りました。
けれど、あの冷たい視線と声は、今でも忘れられません。
死を感じた日
真夏のある日、閉鎖された空間で三人で作業をしていました。
突然、硫化水素ガスが発生し、私はその直撃を受けました。
最初は違和感のような痛みを感じた次の瞬間、一気に意識が遠のいていきました。
「あ、死ぬな」と思ったところで、倒れました。
気がついたとき、私は外に引きずり出されていて、同僚が私の頬を叩いていました。
その二人がいなければ、たぶん助かっていなかったと思います。
上司はその場にはいませんでした。
あとから聞かされた最初の言葉は、「その程度で倒れるとか、舐めてんのか」でした。
死にかけたことよりも、その言葉の方がずっと怖く感じました。
「心が壊れていった日々」
事故のあと、上司の言葉を聞いた瞬間に、何かが完全に壊れたように感じました。
そこからの日々は、ただ耐えるだけの毎日でした。
どんなに注意しても怒鳴られ、何をしても否定される。
それでも「自分が悪いのかもしれない」と思いながら、必死で仕事を続けていました。
お昼の休憩時間も、体力を回復するために少しだけ仮眠を取っていたのですが、「仕事もできないのに休憩なんてありえない」と責められました。
唯一、息をつけるはずの時間まで奪われ、心がどんどん削られていきました。
毎日、怒鳴り声の中で時間だけが過ぎていく。
その頃の私は、もう“自分”という感覚をどこかに置き忘れてしまっていたのかもしれません。
「行けなくなった朝」
ある朝、どうしても仕事に行くことができませんでした。
制服に袖を通そうとしても、体が動きませんでした。
頭では「行かなきゃ」と分かっているのに、涙が勝手に溢れてきて、止まりませんでした。
玄関の前で立ち尽くしながら、私はようやく気づきました。
もう、限界をとうに超えていたのだと。
怖いとか悲しいとか、そういう感情すら言葉にできず、ただ静かに涙が流れ続けました。
その朝を境に、私は職場に戻ることができませんでした。
「たった二週間では、癒えない心」
仕事に行けなくなったその日、家族に連絡を取り、メンタルクリニックに連れて行かれました。
夏の光がまぶしくて、外の世界がやけに遠く感じました。
受付で名前を書く手が震えて、文字がうまく書けませんでした。
診察室では、医師が穏やかな声でいくつかの質問をしました。
ほとんど答えられず、ただ「もう何も考えられません」とだけ伝えたのを覚えています。
静かな間のあと、医師はカルテに何かを書きながら言いました。
「うつ病ですね。しばらく休みましょう。」
その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなりました。
ようやく、名前のついた“理由”が見つかった気がしたからです。
同時に、「ここまで壊れてしまったんだ」という現実が、じわりと心に沈みました。
医師からは、薬の服用と二週間の休養を勧められました。
けれど、二週間で何かが変わるとは思えませんでした。
心が壊れてしまうまでに積み重なった時間は、あまりにも長かったからです。
家で休んでいても、上司の怒鳴り声が頭の中で繰り返されました。
夢の中でも職場に立たされ、何度も「早くしろ」と怒鳴られる。
目が覚めても、胸の奥の重さは消えませんでした。
それでも、薬を飲み、ただ静かに過ごすことしかできませんでした。
何かをしようとすると、体の奥から力が抜けていく。
回復という言葉は、まだ遠い場所にありました。
「心のない形だけの言葉」
退職の意志を伝えたとき、上司は小さく「悪かった」と言いました。
けれど、その声には何の温度もありませんでした。
目も合わせず、顔も見ず、ただ形式的に口にしただけでした。
謝罪というより、「この話を早く終わらせたい」という空気が漂っていました。
その一言で、私ははっきりと分かりました。
この人は、何一つ自分の行動を悪いとは思っていない。
あの日々の中で、誰かの心が壊れていったことにも気づいていない。
それでも、もういいと思いました。
ここで終わらせよう――そう思えたのは、たぶん初めて、自分の意志で“職場”という場所を離れられたからでした。
「最後に」
この記事は、過去の出来事を恨みや怒りで書いたものではありません。
あの頃の自分が、確かに存在していたことを残しておきたかっただけです。
もし、これを読んで「逃げた」と思う人がいるのなら、その人にだけ、静かに伝えたい言葉があります。
私は逃げたのではありません。
壊れかけた心と体を、これ以上失わないために、立ち止まることを選びました。
そして――もし迷惑をかけてしまった人がいたのなら、そのことについては申し訳なく思っています。
それでも、あの時の私は、生きるためにそうするしかなかったのです。
あの頃の私は、相談という言葉の意味すら、遠い世界のことのように感じていました。
弁護士や警察に行くという発想もなく、家族や友人に話すことさえ怖かった。
「自分が悪いのかもしれない」と思い込んでいたからです。
だからこそ、今こうして言葉にしています。
あの時の自分が声を上げられなかった分、同じように苦しんでいる誰かに届けばいいと思って。
どうか、これが“逃げた”のではなく、“生きようとした”選択だったことを、少しでも理解してもらえたら嬉しいです。